
十勝平野の瞑想料理
かっこう料理店
「野菜が主役になる瞬間、驚きに変わる」
かっこう料理店(帯広)——野菜の扱い方が、料理の基準を静かに更新する
帯広に、野菜の使い方だけで勝負できる店がある。
「かっこう料理店」。完全予約制で、派手な発信もしていない。それでも、一度訪問すれば、なぜ同業者がわざわざ足を運ぶかが腑に落ちる。カレーを生業にしている自分が、野菜料理の店でこれほど多くのことを考えさせられるとは思っていなかった。
最初の一皿で、水準がわかった
先付けとして出たのは、ジャガイモのタラコ金平だ。
一口食べた瞬間、この店の輪郭が見えた。ジャガイモの火入れは芯まで均一で、崩れる寸前の柔らかさを保っていた。タラコの塩気と脂が素材に乗っているが、ジャガイモ本来の甘みを消していない。金平という調理法は馴染みのある技法だが、素材の選択と火入れの精度でここまで印象が変わる。
「先付けで客の期待値を設定する」という意識が、明確にある店だと判断した。
かっこうサラダと、野菜の密度
続いて運ばれたかっこうサラダは、色の異なる野菜が皿の上に重なっていた。
注目したのは、色の配置や見た目の華やかさより、野菜ごとの処理の違いだ。生のまま出しているもの、軽く火を通したもの、マリネ処理をしていると思われるものが、一皿の中に混在している。それが雑然とした印象にならないのは、それぞれの野菜が「出すべき状態」で出されているからだろう。
素材の状態を見極め、それぞれに適した処理を選ぶ。当たり前のことのようだが、品数が増えるほど難しくなる。この皿はその難しさを、さりげなく乗り越えている。
野菜料理いろいろ——フリット、ラタトゥイユ、そしてポテサラ
メインプレートには、南瓜とオクラのフリット、ラタトゥイユ、ポテトサラダなどが並んでいた。
フリットの衣は薄く、揚げ色は均一だった。南瓜の甘みが油に逃げておらず、オクラは中心部に粘りが残っていた。揚げ温度と時間の管理が正確でなければ、この仕上がりにはならない。
ラタトゥイユは、野菜の形が崩れておらず、各素材の食感が残っていた。煮崩れを防ぎながら味を入れるには、野菜を投入するタイミングを素材ごとにずらす必要がある。手間のかかる工程を、あえて選んでいることがわかる。
ポテトサラダは一見地味な存在だが、口に入れると芋の粒感と滑らかさが共存していた。混ぜるタイミングと温度が管理されている証拠だ。単品として出しても成立する完成度である。
土鍋ごはんと、花豆のシナモン仕上げ
土鍋で炊かれた南瓜と豆のご飯は、米に南瓜の甘みが移り、豆の食感が全体のアクセントになっていた。土鍋炊きの米は火加減を誤ると焦げるか芯が残るかだが、この日の炊き上がりは均一で、底面にうっすら香ばしさが出ていた。
「とかちごはん」と名付けられたメニューの主菜、中札内若どりの梅照焼きには、ゴーヤや獅子唐が添えられていた。ここで特に目を引いたのが、シナモンで仕上げた花豆だ。
花豆にシナモンを合わせるという選択は、甘味として食べ慣れた豆を、スパイスで別の文脈に置く試みだ。甘さを主張させず、シナモンの香りを纏わせることで、主菜の脂や酸と対話できる副素材になっていた。カレーの文脈で言えば、スパイスが素材を変容させるメカニズムに近い発想で、自分の仕事に直接引きつけて考えることができた。
デザートの設計
締めは甘酒と豆乳で固めた寒天に、有機抹茶を添えたスイーツだった。
甘さは控えめで、甘酒由来の発酵感が残っている。砂糖で甘さを足すのではなく、素材が持つ糖と旨みを使って甘さを作る設計だ。最後の一皿まで、同じ思想が貫かれていることが確認できた。
この店が示していること
この店が東京にあれば、価格は現在の数倍になっても不思議ではない。しかし、帯広の食材がこの密度で成立しているのは、産地との距離が近いからでもある。東京に移植しても、同じものにはならないだろう。
それを逆に言えば、この店は「地産地消」を掲げるより先に、素材の状態を最大限に引き出す技術が先にある。産地の近さはあくまで条件であって、技術と判断力が土台にある。
野菜を扱う料理人はもちろん、素材の処理と火入れの精度を上げたい人間なら、ジャンルを問わず訪問する価値がある。完全予約制で席数も限られているが、それに見合う内容だ。 野菜だけでこんなにも考えさせられる、いわば、瞑想の料理である。
店舗情報
かっこう料理店
北海道更別村〒089-1552 北海道河西郡更別村勢雄317−8
